2020-01-01から1年間の記事一覧
富山城址公園の真東、約1,4kの所に於保多神社がある。 何て読むのか分からなかった。社名の「於保多おおた」は、初めて社が建てられた地名の「太田保(おおたのほ)」を万葉仮名にしたものだという。保は万葉仮名では「ほ」、万葉の歌「於能我乎遠 於保…
富山県警本部前に横断歩道があり、その前が富山城址公園への入口で七十二峰と云う名の橋が架かっていた。 随分欲張った名前だと思ったが、この橋が架けられた昭和28年頃、七十二の峰が連なるといわれている立山連峰をここから一望できたことから、当時の市…
山王町にある日枝神社は富山寺から真西に500m位、徒歩4,5分で着く。 日枝神社は昔、越中新川郡針原(今の立山町五百石附近)にあったが、建武二年(1335)、戦いで焼かれ各地を御遷座し、天正十年(1582)、佐々成政が富山城の守り神として現…
旧城下町に初めての行くときは、予め地図で寺町や寺院を検索してみる。現在の富山市に寺町があったが、町内の半分は呉羽丘陵地帯で戦国時代の山城があったような場所で寺院は一つもなかった。城の東南に小さなお寺が集まっている地域があったが、寺がついた…
富山地鉄上市駅から南東約2.5k、中新川郡上市町眼目にある眼目山立山寺を訪ねた。 地名では眼目は「さっか」と呼び、眼目山立山寺の呼名は「がんもくざん りゅうせんじ」。通称、眼目の寺(さっかのてら)と呼ばれているという。上市も昔、立山の山岳信…
富山では駅に一番近いホテルに泊まった。ホテルの一階が富山地方鉄道富山駅の入口になっていた。 富山地鉄は都市系ICカードを使えないので、富山地鉄専用ICカード「えこまいか」を購入して、上市駅に向かった。富山地鉄に昭和昭和18年戦時統合として、富山…
長岡御廟のある八ヶ山の南側、県道208号線に面して旧富山陸軍墓地があった。 広々とした墓地の入口に平成九年七月建立された「富山県忠霊塔の沿革について」の碑があり、「明治四十一年、歩兵六十九連隊が富山で編成され、同隊の公傷病死者の分骨を埋葬す…
金沢野田山にある前田家墓地、高岡市にある加賀藩二代藩主前田利長墓所から北行して、今回は富山市を訪ねた。富山前田氏は、利長弟加賀藩第三代藩主前田利常は次男利次に富山十万石を分封して富山藩を立藩させた。この富山前田家は富山城、北西方向約3kの呉…
JR大船駅から県道302号(小袋谷藤沢線)をバスで約10分、久成寺前バス停のすぐ後ろ脇道に入ると、正面に階段が見える。この石段の上に二伝寺がある。この石段、標高差15mほどだが、えらく急に見える。 新編相模風土記稿によると、二伝寺は峯渡内の…
小田急線秦野駅の真北、直線で約3kの所に大聖山金剛寺という臨済宗のお寺がある。 新編相模国風土記稿に「承久元年(1219)正月将軍実朝討レシ時武常晴(三浦介ト称シ、三浦郡武村ノ人ニテ承久三年八月十一日死)ト云者、其首級ヲ持来リ、僧退耕行勇ヲ…
大慈寺は新編相模国風土記稿に「法飴山ト号ス、開山覚智、中興開山東勝、中興開基太田道灌(文明十八年七月廿六日卒、法名大慈寺心圓道灌、按ズルニ此寺号ヲ称スルハ当寺ノミニテ上村、洞昌院及系譜等皆洞昌院ヲ号トス)ナリ。按ズルニ先住東陽ガ詩文中遺稿…
太田道灌の胴塚のある洞昌院から真南に5分位、歩いたところに上行寺がある。途中、太田神社と地図にあったので、太田道灌と何か関係が或のかと寄ってみたが、鳥居はあったものの普通の家みたいで入り難く、頭を下げて通り過ぎた。 後で知ったが神道大教の神…
伊勢原上粕屋にある洞昌寺太田道灌胴塚は、七人塚から歩いて二,三分のところにある。 寛政重修諸家譜、清和源氏頼光流太田系図、資長(入道号道灌)「両上杉隙あり、山内顯定、扇谷定政が兵威を揑かんがため、人をして道灌を讒せしむ、これより定政、道灌を…
小田急伊勢原駅から大山ケーブルに向かう途中に上粕屋神社がある。昔は糟屋庄上糟屋村と呼ばれ、今は伊勢原市上粕屋と表記されている。この地で殺された太田道灌と何らかの関係があるかと太田道灌の胴墓に行く前に訪ねた。 神奈川県神社庁のHPにある上粕屋神…
米倉一族菩提寺の一つ、足柄上郡井ノ口村(今の中井町)にある米倉寺(べいそうじ)は編相模風土記稿に「井宝山ト号ス(大住郡堀山下村蔵林寺末)、開山宗高。古ハ鳳安寺ト号シ、今ノ地ノ乾方二アリ。寛永ノ頃、時ノ地頭米倉平大夫繁次(慶安二年十一月死ス…
上杉龍若丸と神尾氏との関係で、上杉憲政の事績を調べていて信濃の志賀城主笠原清繁と武田勢との戦(小田井原の戦)で笠原を加勢した上杉勢は大敗した。この戦いの中で武田勢甘利衆同心頭の米倉重継という武将を知った。武田家滅亡のあと、米倉重継の子孫が…
小田原に「透頂香 ういろう」という胃痛、食中毒、眩暈、頭痛、心悸亢進、其の他用急病皆奏効だという薬を売っている店がある。 ここの店主は代々外郎藤右衛門を名乗っている。新編相模風土記稿に「至正の末元朝滅びし後、二主に事えん事を恥、本朝に帰化し…
5,6年前、ある会津藩士の墓碑を探して小田原板橋にあるお寺と云うお寺を廻った事がある。新幹線と東海道線に挟まれた城山の南側にある玉伝寺の墓地の一角にかなり立派な外郎家という墓所があった。残念ながらその時は「外郎」という字が読めなかった。玉…