2016-01-01から1年間の記事一覧
網一色八幡神社から国道一号線を横切って総合ビジネス高校正門先の千貫橋を渡ると新田義貞首塚の案内板がある。 千貫橋は用水堀に架けた橋で、もと木橋であったものを延宝七年(1679)、長二間(3.6m)、横二間半(4.5m)の欄干のある石橋にした。…
東海道分間延絵図を見ると酒匂川右岸(小田原側)の川越場所は旧東海道、酒匂川の手前300m程からクランク状に折れて、今の国道一号線(東海道)から60m程上流に在ったことがわかる。絵図では、このクランクの付根のところに御霊八幡宮があり、常劒寺…
小田原城下の西南、早川の河口近く南町3丁目に永劫山最勝院報身寺という浄土宗のお寺がある。 この報身寺境外墓地と言っても東側、一本小道を挟んだ向側に平宰相成輔の墓がある。 宇多天皇第二皇子の後醍醐天皇は即位した後、鎌倉幕府の打倒を密かに計画し…
静岡藩に仕えた旧会津藩士林三郎惟純を調べていて、白虎隊にいた西川鉄次郎が沼津兵学校付属小学校で学んでいたことを知った。早速、沼津兵学校の資料が揃っている沼津市明治史料館を訪ねたのが今から8年前の残暑が残る8月の末だった。史料館に着くと窓が…
新編相模国風土記稿、高源院の項に北條氏康妹にて山木御大方と称した高源院と香沼姫の位牌を安置するとあった。高源院は遠江の堀越貞基に嫁いだ北條氏綱の五女崎姫の事で、今川家の家督相続争い「花倉の乱」で玄広恵探(今川義元の庶兄)側に与した堀越六郎…
小田原城山の高長寺は、明治三十九年(1906)横浜監獄小田原分署幼年監(現小田原少年院)が設置された際に、建設予定地内の高源院と、隣接の長吉寺が合併され、それぞれの頭文字を取って高長寺と名付けられた。 新編相模国風土記稿に高源院は武蔵越生龍…
16年5月に小田原城常盤木門の二階渡り櫓部分に「常盤木門SAMURAI館」がオープンした。小さなスペースだが、鎧冑や刀剣類など武具に特化した展示をするという。 ここに小田原藩、浅田兄弟の仇討ちの遺品が展示されているのを知って訪ねた。この展示…
小田原駅から歩いて15分程の小田原城三ノ丸のあった本町に古い鰻屋がある。店名は家紋の柏と初代又次郎の名を取って「柏又・かしまた」という。開業して百四十年ほど経つという。古地図をみると店の場所は丁度小田原城外堀の東南端付近になる。小田原城の…
興津清見寺咸臨丸乗組員殉難碑は、石灰拓本なのか白い痕が残っているのにはガッカリしたが、由緒は古く、蝦夷の防備のためここに清見関を設け、傍に鎮護のため仏堂を建立したのが清見寺の始まりと伝える。 朝鮮通信使が残した揮毫扁額をはじめとする多数の書…
司馬遼太郎の小説「項羽と劉邦」を読んだ。その中に劉邦の武将韓信の謀臣となった弁士蒯生が韓信に漢王劉邦に謀反せよと勧めたとき、韓信が「食人之食者死人之事」と答えたという。史記准陰侯列伝には「韓信曰、漢王遇我甚厚、載我以其車、衣我以其衣、食我…
山中城址に建立された宗閑寺の境内に、秀吉の北條方山中城攻めで豊臣方の先鋒を務め戦死した一柳直末の墓がある。 戒名は大通院殿前豆州太守天叟長運大禅定門、院号が大通院で、弟監物直盛が家を継いた。直盛の嫡男直重は伊予西條藩、二男直家は播磨小野藩、…
天正十八年(1590)三月二十九日、豊臣秀吉の北條攻めで討死した間宮一族の墓のある三島山中城三ノ郭址にある宗閑寺を訪ねた。この寺は山中城で討死した間宮康俊の娘、お久の方が亡父の菩提を弔う為、山中城の一隅に寺を建てることを願い出て許され、了…
金沢駅近くの朝食付ビジネスホテルに泊まる。ホテル横に系列のタクシー待機所があるというのでこのホテルを撰んだ。ここの朝食が酷かった。食事の内容がどうのこうのではなく、従業員が食事の終わったテーブルの上のパン屑など手で掃ってゴミをなくしていた…
兼六園の中にある日本で最初だという噴水を、しばらく眺めていた。 この噴水を兼六園では文久元年(1861)に造られた日本最古のものだとしていたが、水戸の玉龍泉の方が天保十三年(1842・偕楽園の開園)に造られもので、古いのではといわれるように…
金沢の観光地で人気があるのが日本三名園の一つの兼六園。大昔に来たことがあるが、片方が折れた灯籠しか記憶にないので再訪した。説明によれば、この大名庭園は広大な土地に、池、築山、御亭を配置した廻遊式の庭園で大きな池を大海に見立て、そのなかに不…
市内の神社めぐりは金沢城の西端にある尾崎神社からスタートした。 この神社は寛永二十年 (1643)に四代藩主前田光高が金沢城北の丸に天照大神・源朝臣家康(徳川家康)・菅原朝臣利常(加賀藩三代藩主)を祀る東照三所大権現社として建立したもので、明…
金沢に泊まって能登のお寺さんを廻る。総持寺祖院等を訪ねるのも非常に不便で、電車で行くか、高速バスで行くか迷ったが、のと鉄道の観光列車に一度は乗りたくて電車を利用することにした。JR七尾線とのと鉄道の車両がラッピング車両で、JR七尾線車両は…
金沢市内は妙に方角と距離感がとれない町である。町の中心、お城は金沢駅の東南の方向、約2kにあり、小立野台地の先端に浅野川と犀川とに挟まれたほぼ真ん中に築かれている。 城を中心に道が八方に伸び、菱形に城下町が形成されている。昔は地図の上方は北…
加賀藩八家の筆頭家老本多氏の菩提寺、大乗寺を訪ねる。 東香山大乘寺は、山号を古くは椙樹林、後には金獅峯と号した。開山は曹洞宗大本山永平寺開祖道元禅師、その一番弟子の懐弉禅師、またその弟子の徹通義介禅師で、大本山總持寺を開創した瑩山紹瑾禅師は…
加賀藩の職制は大雑把に人持組頭、人持組、平士、与力、御歩、足軽とに分かれるという。金沢市のH・Pに「加賀藩では、元禄3年(1690年)以降、8つの家柄が藩の重役である年寄衆を代々世襲しました。これを八家(はっか)といい、家臣の中でも別格の扱…
北陸新幹線が開通してから1年経った。少しは落ち着いたかと思っていたら、案の定6・7割の乗車で結構富山駅で降りる客も多かった。小田原からだと3時間30分ほどで金沢駅に着く。駅前の広場に鼓を二張立てたような巨大なモニュメントがあった。何のため…
佐々木氏流近江源氏流間宮氏は、寛政重修諸家譜によると始め萬石氏から真野氏、船木氏を名乗り信冬のとき間野氏となり、信盛より豊前守を名乗り、北條氏に仕えた。間宮本家の間宮信冬、信盛父子は北条早雲に仕え、信盛の子信元は氏綱に仕え、その子康俊は玉…
会津藩藩祖保科正之の母方の祖父母は元北條氏家臣神尾伊予と杉田氏女、祖父の神尾氏も北條家臣団のどの神尾氏だか特定できないでいた。それではと夫が北條家臣なら妻の実家杉田家も北條家家臣ではないかと探し始めた。北條家家臣団には小河内衆杉田氏と間宮…
「湖水荘」は大津久バス停からバス停で一つ、青梅街道川野トンネルを出た中奥多摩湖バス停の傍なので、旧道を歩いて行くことにした。10mもない崖下はダムで堰き止められた多摩川の水が湛えられている。 小河内ダムの高さは149m、最大水深142.5m…
西多摩郡奥多摩町川野は昔、武州三田領小河内川野村とも武蔵多摩郡川野村と云われていた。戦国時代、ここの地侍で三田氏に仕えた杉田一族は三田氏滅亡後、北条氏に仕え、武州北條領と甲州武田領の境目の地として武田方の小菅勢と対峙していた。以前、神尾伊…
新編相模国風土記稿に浜邊御所についての記述がある。酒匂村の小名に「はんべ」という地名があり「東海道の通衛にて、西の方長一町余(109m余)の所を云、按ずるに「東鑑」に酒匂浜邊御所など見えしは、則此地なるべし」、事は旧蹟の條に詳なりとある。…
東海道分間延絵図(酒匂村)新編相模風土記によると大見寺は「光明山無量院と号す、天文三年(1534)僧退堂、小菴の古跡に就て起立す、境内に小島氏の墳三あり、各五輪なり」という。 三つの墓石は、市内にある個人の墓のうち、年代を明記した最も古いも…
「小田原の桜」を検索すると、小田原城址、長興山紹太寺のしだれ桜に交じって、山北駅御殿場線沿い桜並木が出てくる。国府津駅で御殿場線に乗換え山北駅に向かう。殆どの人が小田急線とクロスする松田駅で降り、次の駅、県立山北高校がある東山北駅で高校生…
東海道分間延絵図 酒匂宿 「富士の高嶺を西に見て 南に望む相模灘」は酒匂小学校校歌の一節で、酒匂小の前身は長楽寺より始まり、その頃のまわりの風景を、詞にしたものだという。酒匂小は、明治五年(1872)、酒匂村長楽寺を仮校舎として足柄上郡、下郡…
小田原酒匂に国立印刷局の小田原工場がある。ここのH・Pに業務内容が日本銀行券の製造とあり、しかも年度ごとに達成すべき目標までもあってビックリした。この小田原工場敷地内を桜の開花時期に合わせて土・日に一般開放して観桜会を開催している。第37…